PART 1 / 身近な謎

フリマに出すとき、自分の使い古しに、なぜか強気な値段をつけてしまう。試着した服が、脱ぐのが惜しくなって買ってしまう。お試しで使い始めたサービスを、解約するのが面倒で続けてしまう。これ、あなただけではありません。

同じ「もの」なのに、なぜ“持っている人”と“欲しい人”では、つける値段がこんなに食い違うのか?

「強欲だから」ではありません。これは所有という行為が引き起こす仕組みで、ありふれたマグカップを使った実験で、くっきりと数字に出ています。

PART 2 / この研究は、何を解こうとしたか

経済学には、こんな考え方があります(コースの定理)。「もの」は、いちばん高く評価する人のところへ、取引によって流れていく。誰が最初に持っていたかは、最終的な価格や取引には関係ない――。理屈としては、きれいです。

でも、ダニエル・カーネマン、ジャック・ネッチ、リチャード・セイラーは疑いました。「“いま持っているかどうか”だけで、人がつける値段は変わるのではないか?」。もしそうなら、市場は理屈通りには動かない。これを確かめるため、彼らはとてもシンプルな実験を組みます。

PART 3 / 実験を、ていねいに

今日参考にするのは、ダニエル・カーネマン、ジャック・ネッチ、リチャード・セイラー が行った
『保有効果とコースの定理の実験的検証』(1990年)という実験です。

マグカップを「配られた人」と「配られなかった人」

研究者は、学生を2つのグループに分けました。片方には、大学のロゴ入りマグカップを配り、「これはあなたのものです」と告げます。そして聞きます。「いくらなら、これを売りますか?」。もう片方にはカップを渡さず、こう聞きます。「いくらなら、これを買いますか?」。まったく同じマグカップ。違うのは、いま手元に持っているか、いないかだけです。

THE MUG EXPERIMENT(1990)

同じマグカップ。「持っている人の売値」と「欲しい人の買値」は一致するか。

対象
大学生
売り手
マグカップを配られ「あなたのもの」とされた人 → いくらなら売るか
買い手
カップを持っていない人 → いくらなら買うか
ポイント
カップの割り当てはランダム。理屈(コースの定理)なら、売値と買値は近い値に揃うはず
測定
売値・買値の中央値
さて、実験開始

あなたの机に、マグカップが置かれたら

あなたは売り手のグループに入りました。係の人が、大学ロゴの入ったマグカップを、あなたの机にコトンと置きます。「これは、あなたのものです」。手に取ってみる。悪くない。ロゴもかわいい。そこで聞かれます。「では、いくらなら手放しますか?」。あなたは考えます。「うーん、せっかく自分のになったしな……これくらいはもらわないと」。気づけば、けっこうな値段をつけている。

一方、買い手のグループのあなたは、カップを持っていません。同じマグカップを見せられて、聞かれます。「いくらなら買いますか?」。あなたは冷静です。「マグカップ1個に、そんなには出せないな。出してもこれくらいか」。財布の紐は、しっかり締まっています。

同じカップ。ついさっきランダムに配られただけ。理屈なら、売りたい値段と買いたい値段は、近くで折り合うはずです。ところが、出てきた数字は——。

RESULT

結果:「売る側」と「買う側」で、つけた値段はどれだけ食い違ったか。

マグカップにつけた金額(中央値)
売り手の希望額(手放す値段)
$7.12
買い手の希望額(払う値段)
$2.87
出典:Kahneman, D., Knetsch, J. L., & Thaler, R. H. (1990). "Experimental Tests of the Endowment Effect and the Coase Theorem." Journal of Political Economy, 98(6), 1325–1348.

売り手は$7.12、買い手は$2.87。およそ2.5倍の開きです。ものは同じ、配られたのはほんの数分前。それでも、「自分のもの」になった瞬間、カップの価値は膨らみました。理屈通りなら成立するはずの取引も、ほとんど起きませんでした。

PART 4 / なぜ、こうなるのか(心理の分析)

「手放す痛み」は、「手に入れる喜び」より大きい

ここが核心です。なぜ、持っているだけで値段が変わるのか。

① 損失回避:失う痛みは、得る喜びの約2倍。 これがいちばんの理由です。売り手にとって、カップを手放すことは「失う」こと。買い手にとっては「得る」こと。同じカップでも、失う痛みは得る喜びより大きく感じられる。だから、手放すにはより多くの対価が要るのです。

② 所有が「基準点」を書き換える。 人は、いまの状態を基準にして損得を測ります。カップを持った瞬間、「カップがある」が新しい基準になる。そこから手放すのは“マイナス”。一方、持っていない人にとって、買うのは“プラス”。同じ取引が、立場によって「損」にも「得」にも見えるのです。

③ 短い時間でも芽生える愛着。 たとえ数分でも「自分のもの」になると、人はそれに心理的なつながりを感じ始めます。「これは“私の”カップ」。この小さな所有感が、値段を押し上げます。

ひとことで言うと――

人は「持っているもの」を、手に入れる前より高く評価する。所有した瞬間、“失う痛み”が値段に乗るから。だから、一度持たせると、人は手放したくなくなる。

PART 5 / 限界と、誤解されがちな点

頑健な現象ですが、いつでも同じ強さで出るわけではありません。

・「取引のための品」では弱まる。 お金や、もともと売買・交換が前提のもの(トレード用のチップなど)では、保有効果はほとんど出ません。手放すことが前提のものには、愛着が乗らないからです。

・実験手続きへの批判もある。 後の研究(Plott & Zeiler 2005 ほか)は、効果の一部は実験のやり方や慣れ不足から来る可能性を指摘しました。効果の存在は広く認められていますが、その大きさや原因には議論があります。

・“持たせれば必ず売れる”ではない。 所有感は購入の後押しにはなりますが、中身が伴わなければ、試用後にあっさり手放されます。

PART 6 / マーケティング・PRへの活用

これを、試用・お試し・体験設計にどう効かせるか

試用・物販

先に“持たせる”

試着・試乗・お試し・返品保証で、買う前に「自分のもの」の感覚を作る。手放したくなくなる。

サブスク・会員

無料期間で所有感を

無料体験中に「自分のアカウント・自分の設定」を育てさせる。解約=失う、になり継続が増える。

イベント・体験

“自分ごと”にする

来場者に作らせる・名入れする・持ち帰らせる。所有感のある体験は、愛着とリピートを生む。

イベントや体験の設計でも、原理は同じです。来場者に「自分で作った」「自分の名前が入った」「持って帰れる」ものを渡すと、その体験は“自分ごと”になり、愛着が生まれます。お試しやサブスクでも、無料期間のうちに「自分の設定・自分のデータ」を育ててもらえば、手放すのが惜しくなる。ただし忘れてはいけないのは、所有感は“良い中身”があってこそ効くということ。持たせて愛着を作り、その期待に体験で応える――この順番でこそ、保有効果は信頼につながります。